少子化対策がすすまない理由ー子どもは「授かりもの」

深刻化している「少子化」問題。

さまざまな識者が一家言あるものでしょうけれど、この減少を止めるには、妊娠・出産・育児が「自然」に属すものであるということを日本人が思い出すことなしには、進まないのではないかと考えます。

最近、不妊治療・無痛分娩の補助、児童手当の拡充、高等教育機関の無償化、育休手当の給付率の引き上げ等、少子化対策に関わる「お金」の施策が充実してきています。

大変有難いことなんでしょう。

しかし、「少子化対策」としての効果の見通しは明るくはないように思えます。

日本の人口減少予測では、中位推計で2100年の日本の人口は4700万人。
現在、1億2500万人(2023年統計)ですから、80年間で7730万人減る計算になります。
年平均97万人。秋田県一つ分の人口が毎年消えてゆくことになるのです。

県が一つ消える規模なのに・・・と嘆き、政府はこれまで何をしてきたのだと批判する人は多いのですが、このような人口減少問題を深刻な社会問題としてこれまで日本が本当に捉えてこなかったのでしょうか。

そんなわけはないと私は思います。

それなりに政治の中枢部では、ことの重大さはわかっていたはずです。
むしろ、「少子化」を声高に叫べば叫ぶほど、少子化が進むという言葉の呪力を信じていたのでは?と勘ぐりたくなります。

ただし、少子化対策をこれまで、それなりに実施してきたのだという自負を国が持っているとするなら、対策の要を「保育所を増やすこと」と捉えてきたことに、今も少子化が全く解決されていない理由があるように思えます。

今からおよそ10年前頃、「待機児童の問題」がしばしば、取り上げられたのは記憶に新しいかもしれません。確かに、待機児童の解消が求められていました。「保育場」は必要でした。

しかし「少子化対策」の政策の要を「保育所の増設」のみに委ねる考えは、どんなにアカデミックな根拠があったとしても、問題の解決に繋がることにならないと気づくべきだったと私は思います。

当座の待機児童の問題の解決以上に、少子化対策そのものが「保育所の増設だ」と考える学術的な理論があたかも真実であるかのように信じられていたのです。その根幹を支えていたのは、出産が経済的な効用でコントロールできるという経済学理論です。

「保育所を増やせば、子どもが増える」のだろうか。

素朴に「えっ?」と思う方もいると思いますが、その方の直感は優れていると、私は思います。甚だ疑問に感じる方もいるかもしれませんが、「保育所を増やせば、子どもが増える」という仮説には学術的な根拠が存在し、大真面目に考えられていたのです。

それは1960年代~70年代のの経済学の研究、「少子化対策としての保育政策拡大の効果について」、つまり、保育政策と出生行動(出産の意思決定)に関する経済学の研究に基づいています。

そこでは、

「それぞれの家族は与えられた所得と時間のもとで、その効用を最大化するために、育児コストと子どもから得られる効用を比較して、最適な子どもの数を決定する」と言うのです。

皆さんはどう思いますでしょうか?

家庭が子どもを持つときに、給料と時間とコストを考えて、冷静に子どもの数を決定したでしょうか?

私はおおいに違和感を持ちます。

この考えに基づく限り、日本の少子化は解決しないでしょう。

育児コストと子どもから得られる効用を比較する場合、家族が育児をすることで所得を失うことを嫌がるだろうと想定されます。経済学的には、育児で働けなくなることで、失われる賃金の損失を「育児の機会費用」と考えます。

育児があるから、稼げないと主に母親が嘆くと言うのです。

しかし、保育サービスが充実していれば、育児期間中に働き続けることが容易になり、育児期間中に働くことができれば、それによって出産・育児の機会費用を減少できるから、女性が出生行動を促進させることができると考えるわけです。

これが、少子化対策=保育所の増設の理論根拠です。

これは本当なのでしょうか。

現在、私が関わっている保育園の園長さんたちは、毎年、定員割れを心配しています。待機児童問題が解決され、保育園が地域に増えてきたにもかかわらず、子どもが増えていないのは明らかです。

「保育所が増えれば、子どもがたくさん生まれる」という仮説について、保育所の数と出生数には有為な相関がなかったことがわかったわけです。

このような経済理論が流布される恐ろしさは、これにあてはまる考え方の人間も増やしてしまうことです。子どもを増やすために、所得を増やすべきだ、という主張が最たる例です。韓国や中国では、その類いの少子化対策が行われていますが、結果はどうなるでしょうか。私はきっと上手くいかないと思います。

最も少子化対策で危惧するのは、このような経済学の根拠が、子どもが生まれることを「効用」でしか、とらえられておらず、出産が人為の及ぶことがないという、「授かりもの」であるという一面を軽んじてしまことです。

人として、生き物として、「人為」の及ばないことがある、それが出産であると直感することが必要なんだと思います。

社会的な損得とリンクさせてはいけないのです。

「子どもは授かりもの」であり、「子ども(童)」とは「聖なるもの」と「人間界」だという古来からの教えに目を向けなければなりません。

世界には、子どもを「特別扱いし」、大人とは違う「神」に近い存在ととれる国がいくつもあります。

日本は、子どもを大切にしてきた歴史と文化がある国です。
それは、甘やかすのではなく、「聖」なるものとして子どもを考えてきたからでしょう。
私たち大人がコントロールする者ではない、という共通理解があったのです。

国が、そのような領域に介入することは、出産の性質上全くそぐわないと言えます。

現に、「産めよ殖やせよ」という政治的誘導があった、太平洋戦争時中よりも、食糧難で、子どもがいたらむしろ生活が苦しくなる時期により多くの子どもが生まれました。

親たちが出産を歓迎したのは、「今生まれてももう戦争で殺されずに済む」と思ったからでしょう。生まれた子どもたちを国家が利用しようとしていると感じると母親は子どもを産む気がなくなるのではないでしょうか。

出産しろではなく、出産したくなる社会を作らなければなりません。

それは、出産したら報奨金を出すのとは真逆の政策になるのではないでしょうか。


ー参考文献ー

Becker, G.S (1960),"An Economic Analysis of Fertility," in Demographic and Economic Change in Developed Countries, Princeton University Press ,Princeton


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