教育の原風景へ ―長崎・広島の灰の中から考える
最近、教職員の方々からの相談を受ける機会が増えました。長崎でのイベントを前に、そして終戦記念日を前に、いま頭に浮かんでいることを書き留めておきたい。
それでも、あえてお伝えしたい。教育者を志した瞬間、その胸の奥には、何らかの理念があったはずです。理念というと大げさに聞こえるかもしれませんが、要するに「この子たちにこうなってほしい」という願いのことです。その理念と、目の前の子どもや保護者と向き合ったときの直感――この二つを信じる他ありません。
年配の先生方は「昔と今は違う」と言います。確かに日本の社会は、経済も政治も変わった。しかし、戦後まもなくの混乱期、GHQの指導のもとで教科書に墨を塗り、全く異なる価値体系で教えた先人たちの経験に比べれば、今日の変化はまだ揺らぎの範囲に過ぎないのかもしれません。
ここで申し上げたいのは、困難の程度の問題ではない。いかなる体制の激変のただなかにあっても、あるいは、いかなるマニュアルも通用しない極限状況においてさえ、子どもたちに受け渡さなければならない「何か」があった、という事実である。それを手渡す営為、それこそが「教育」と呼ばれるものの本質だったはずではないか。それは、時の政権や経済体制に奉仕するためのものではない。人間が、人間として尊厳を失わずに生き延びるための知恵と構えを、世代から世代へと手渡すための、切実な共同的営為。それが教育なのである。
戦前から戦後へ、価値が大きく書き換わった時代にも、変わらずに伝えられたものがありました。それが「教育」の核です。時代や政権に左右されず、日本人として生き延びるために、いや、人間として生きるために必要なことを伝える営み。それこそが教育の本来の存在理由なのです。
そのことを、原爆投下後の広島・長崎の「教育の原風景」から、私たちは学び直すことができる。
広島では、原爆投下からわずか二か月後の1945年10月、一部の学校で授業が再開されました。焼け残った建物や放送局を間借りし、校舎を失った学校では青空教室が開かれました。長崎でも同じ頃、焼け残った校舎や他校を借り、授業が始まりました。長崎純心高等女学校は原爆投下から二か月後の10月9日、大村市の海軍航空廠宿舎に移り、翌日には授業を再開しています。
校舎は廃墟と化し、教職員も児童生徒も多くが犠牲になり、教科書も学用品もすべて焼かれた。それでも、教育は再び息を吹き返したのです。注目すべきは、それがGHQの本格的な教育指導が始まる前だったということです。生き残った教師たちは、子どもたちの安否を尋ね歩き、家を訪ね、声をかけ、励ましました。その行為そのものが、学校という共同体を再びつなぎ直す第一歩となりました。
繰り返しますが、広島でも長崎でも、街が灰燼に帰し、おびただしい数の教師と子どもたちの命が失われた、そのわずか二ヶ月後には、授業が再開されている。重要なのは、この再開が、GHQという「外部の権威」による指令が届くより「前」に、まったくの自発性において始まったという事実なのです。
カリキュラムも、教科書も、校舎すらなかった。救護所で子どもたちに物語を読み聞かせる大人。焼け残った寺の軒下で、子どもたちに九九を教える元教員。それは、大人が子どもに寄り添い、瓦礫のなかで、生きる希望と人間としての尊厳のありかを、その全身をもって手渡そうとする、無数の名もなき人々の、切実な「ふるまいの集積」であったのである。
そこには見返りを求める心性はない。ただ、目の前の子どもたちに、人間的な世界との絆を取り戻させたいという一心からの、純粋な「贈与」の行為があっただけである。
そして、生き残った教師たちは、自らも被爆し傷つきながら、教え子たちの安否を尋ねて瓦礫の街を歩いた。この、生徒の家を訪ね、無事を確認し、言葉を交わすという行為そのものが、ばらばらに引き裂かれた人間関係を縫い合わせ、教育的共同体を「再起動」させる、最初の、そして最も重要な一歩だったのだ。
この名もなき営みこそ、教育の原風景です。
限界状況にあっても、「教師」であることをやめなかった人々がいました。それは資格や制度で決められた先生ではありません。無数の名もなき教師が存在してコミュニティーを作り直したのです。その原点を思い出すとき、私たちはもう一度、自分がなぜ教師になったのか、その理由に触れることができるはずです。
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