世界で学ぶ異文化を越えて働く② 価値観の揺らぎと再発見――「正しさ」と「生きやすさ」の間で
いま、子どもたちに必要なのは「英語」よりも、
多様な価値観を受けとめる力──つまり「異文化のまなざし」です。
本連載では、国際ビジネス、教育、地域開発などの現場で40年以上にわたり、
五大陸・88か国を実地に歩いてきたGIERIの国際教育アドバイザー・栂野久登(とがのひさと)氏が、現場で肌で感じ、対話し、乗り越えてきた「文化を越えて働く」リアルな知見を語ります。
単なる“海外体験”ではありません。
言葉・習慣・価値観のズレに直面しながら、どう人と関係を築き、
どう「違い」を教育やビジネスの力に変えてきたか──
今回のテーマは、
「価値観のゆらぎ」。
私たちの正しさ、生きやすさとは何なのか、異文化の中でこそ問われる問題です。
価値観の揺らぎと再発見――「正しさ」と「生きやすさ」の間で
ブラジル駐在が数年目に入ったころ、私は一つの違和感に苛まれていた。
それは、「自分の正しさ」と「現地の人々の生き方」が、あまりにもかけ離れて見える瞬間が増えたからだ。
善意がずれるとき
ある日、家政をお願いしていた女性が、病気の子どものために薬代を工面できないと打ち明けてくれた。私は即座に、1カ月分の給金を前渡ししようとした。日本なら、困っている人に手を差し伸べるのは当然のことだ。
ところが彼女は、にこやかに、しかしはっきりと断った。
「お気持ちは嬉しい。でも、それに慣れてしまうと、あなたがいなくなった後がつらくなるから。」
胸に刺さった。
「助けたい」という私の正義が、相手の自立を脅かすこともある。
その日から私は、支援や善意を差し出す前に「これは相手の未来を狭めないか?」と自分に問い直すようになった。
好奇心にも礼儀がいる
また別の日、私はファベイラ(スラム)に招かれ、夜のバーベキューに参加した。そこでは、肉の煙の向こうで子どもたちがボールを蹴り、誰かのギターに合わせて歌が始まり、近所の人が次々に混ざり合う。――貧しいのに、驚くほど豊かな夜だった。
だが翌日、上司から釘を刺された。
「君の立場でそのエリアに出入りするのは、社会の暗黙の線を乱すことになる。」
なるほど、と思った。私にとっては「純粋な好奇心」でも、社会全体の文脈では「秩序を壊す行為」になり得る。
異文化の理解は、距離感を含めて成り立つ。
礼儀を欠いた好奇心は、相手にとって侵入になる。私は自分の“歩幅”を改めて測り直した。
正しさより「調和」
日伯合弁公社での会議でも、同じことを痛感した。
政府系金融、現地経営陣、日本側株主――それぞれが譲れない「正義」を持ち寄る。会議室の空気はいつも張り詰め、時に罵声に近い声が飛び交うこともあった。
そんなとき、私が意識したのは「正しい答え」を出すことではなく、関係が壊れない温度を保つことだった。
昼休みに冗談を飛ばす。コーヒーを淹れるタイミングを見計らう。サッカーや家族の話題で場を少しほぐす。――すると、不思議なことに、その後の議論は前進しやすくなるのだ。
合意に至った背景には、数値や契約条項だけでなく、人と人との温度差を埋める小さな工夫があった。私はそのとき初めて、父が言った「共存共栄」という言葉の重みを実感した。
価値観を揺さぶられた果てに
ブラジルの人々は、私の想像以上に「今を生きる」ことに長けていた。明日の保証がないからこそ、今この瞬間の喜びを大切にする。その生き方に、当初は戸惑いと反発を覚えた。
「計画性がない」「責任感が薄い」とさえ感じたこともある。
だが次第に、未来のために今を犠牲にする日本的な発想と、今を楽しむブラジル的な発想の両方に学ぶべき点があると気づいた。
未来を考えなければ組織も国家も続かない。
けれど、今を楽しめなければ、人は疲れ果ててしまう。
価値観は一方的に優劣をつけるものではなく、振り子のように揺らしながら、自分の中で均衡を探すものなのだ。
読者へのメッセージ
もしあなたが教育者や保護者なら、子どもたちに問いかけてほしい。
「正しいこと」と「生きやすいこと」がぶつかったとき、どう選ぶだろう?
どちらも手放さずに済む道はあるだろうか?
異文化に身を置くと、人は必ず「自分の正義の脆さ」に気づく。
けれど、それは不安ではなく、自分を広げるチャンスだ。
揺らぎの中で、あなた自身の新しいバランスが見つかる。
次回は、私がコパカバーナの白い砂浜で出会った「盗人の良心」の話を紹介したい。
そこで浮かび上がるのは、「善」と「悪」を単純に分けられない、人間の奥深さだ。
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