【新連載】「世界で学ぶ、文化を越えて働く」──子どもに伝えたい「本当の異文化」第1回 言葉は道具以上のもの ― 異文化で「生きる」ために、私が学んだこと
いま、子どもたちに必要なのは「英語」よりも、
多様な価値観を受けとめる力──つまり「異文化のまなざし」です。
本連載では、国際ビジネス、教育、地域開発などの現場で40年以上にわたり、
五大陸・88か国を実地に歩いてきたGIERIの国際教育アドバイザー・栂野久登(とがのひさと)氏が、現場で肌で感じ、対話し、乗り越えてきた「文化を越えて働く」リアルな知見を語ります。
単なる“海外体験”ではありません。
言葉・習慣・価値観のズレに直面しながら、どう人と関係を築き、
どう「違い」を教育やビジネスの力に変えてきたか──
今回のテーマは、
「語学と本当のコミュニケーション」。
文法や単語の暗記ではなく、ことばを通じて、どう人とつながるか。文化の壁をどう越えるか。
――ブラジル、ドイツ、フランス、そして世界中で語学の限界と可能性に向き合った体験から見えてきた、「生きるための語学」論を、ぜひご覧ください。
言葉は道具以上のもの
― 異文化で「生きる」ために、私が学んだこと
私はこれまでの人生で、語学は「学問」ではなく「生きるためのツール」だと実感してきました。異国の地で人と向き合うとき、求められるのは単なる文法や単語の知識ではなく、相手の文化や感覚に入り込み、コミュニティの一員として受け入れられるための姿勢や感性です。今日は、そんな私の実体験をお話ししたいと思います。
異国の小学生として学んだこと
私は大学時代、ブラジル駐在に備えて、上智大学で4年間みっちりポルトガル語を学びました。卒業から10年後、実際にブラジルに駐在してみると、確かに聞き取ることはできるのに、まったく自己表現ができなかったのです。イギリスの大学院でも学び、英語で自身を伝えるトレーニングをを相当につんできました。自己表現力に強い自負をもっていたにもかかわらず、全くできないのです。そのもどかしさに、「このままではいけない」と思い、思い切って土曜日に現地の小学校に飛び込むことにしました。「入れてください」と頼み込み、地元の子どもたちに混じって授業を受けたのです。
なぜそんなことをしたかと言えば、語学は机の上で学ぶだけでは身につかないと知っていたからです。子どもたちの間で使われている言い回しやリズムを体に染み込ませることで、私は急速に言葉を豊かにし、コミュニティに入り込むことができました。この経験が、私の語学観を決定づけたのです。
「生きるため」に語学を使うという姿勢
私は語学を「楽しむもの」だと考えていますが、決して軽い意味ではありません。異国で生きていくためには、正確に、そして相手に届く表現が必要です。ドイツやフランス、イギリスでも、相手の文化に即した言い方を選ばなければ、思いは伝わりませんでした。特にドイツ駐在時代は、長く住みながらも自己表現の難しさに何度も直面し、「英語に置き換えればいい」という発想が危ういことに気づかされました。
語学は自己満足のために身につけるものではありません。不完全でも構わないから、相手の懐に飛び込み、文化に敬意を払ってコミュニケーションする。それが「生きるための語学」だと、私は身をもって学びました。
言葉の使い方で交渉を制する
ビジネスの現場でも、語学力がそのまま交渉力になるわけではありません。中南米の代理店との交渉で、私はあえて英語で話しながら、相手がスペイン語でひそひそ話している内容を聞き取り、ここぞというタイミングでスペイン語で返したことがあります。その瞬間、場の空気は一変し、相手の本音が引き出せるようになりました。
語学は「できるか・できないか」の競争ではなく、「どう使うか」が問われるのです。日本人が集まって外国語でひそひそ話をしているのを見かけるたび、私はこの経験を思い出します。聞いている人は必ずいるのです。
読者のみなさんへ
今、グローバル社会では英語さえできればいいという風潮があります。しかしそれだけで、相手の文化や価値観に寄り添い、本当に深い関係を築けるでしょうか。戦後の日本外交を振り返れば、通訳を通しても確かな主張をし、成果を上げた先人たちがいました。逆に、今の日本が「言葉」に支配され、主導権を失っているようにも感じます。
語学は「相手とどう向き合うか」を映し出す鏡です。あなたが学んできた言葉を、これからどのように使い、誰とつながっていくのか。ぜひ、一度立ち止まって考えてみてください。
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