【学会報告④】「ギフテッド」とは何か? — アメリカの変遷から学ぶ、診断ではなく“教育”としての視点

 GIERI代表の石川です。

学会レポートも第4弾となりました。今回は、学会企画シンポジウムで登壇された関内偉一郎先生(昭和女子大学)の発表を取り上げます。

関内先生はアメリカのギフテッド教育制度の専門家であり、今回のシンポジウムでは「ギフテッド・2Eとは何か」という根本的なテーマについて、アメリカの歴史的変遷を紐解きながら解説してくださいました。

その内容は、ともすれば「IQが高い天才」というイメージで固定されがちな日本のギフテッド観に、一石を投じる非常に整理されたものでした。

1. ギフテッドは「医学用語」ではなく「教育学用語」である

まず、非常に重要だと感じたのが、「ギフテッドとは心理学的知見を基盤とした教育学上の概念であり、医学的な診断名ではない」という指摘です。

これは当たり前のようでいて、日本ではしばしば混同されがちです。病院に行けば「ギフテッドです」と診断されるわけではなく、あくまで「学校教育の中で、特別なニーズ(支援やプログラム)を必要とする子ども」を指す言葉なのです。


2. アメリカにおける2つの潮流:静的モデルから動的モデルへ

発表の中で特に興味深かったのは、アメリカにおけるギフテッド観の劇的な変化です。

  • 20世紀前半(伝統的ギフテッド観): ルイス・ターマンらの影響による、「IQ(知能指数)」重視の時代。才能は「生まれつきのもの(天賦)」で「変わらない(静的)」と考えられ、「誰がギフテッドか?」という選別(識別)に重きが置かれていました。

  • 20世紀後半〜現在(才能開発モデル): 心理学の進展に伴い、才能を「育成・開発可能なもの(動的)」と捉える「才能開発(Talent Development)」の概念が登場しました。 ここでは、IQという単一の指標だけでなく、「領域固有の能力(特定の分野での強み)」や、環境との相互作用による「伸びしろ(潜在性)」が重視されます。

つまり、「生まれつきギフテッドであるかどうか」を探すのではなく、「その子の持っている潜在能力を、いかにして具体的な才能(タレント)へと開花させるか」という教育的プロセスへと焦点が移っているのです。


3. 日本が今、考えるべきこと

この「才能開発」の視点は、これからの日本にとって非常に示唆に富んでいます。

私たちはつい、「うちの子はギフテッドなのか、そうでないのか?」というラベル(レッテル)にこだわってしまいがちです。しかし、アメリカの潮流が示すように、重要なのはラベル貼りではなく、「その子のニーズに合った教育や機会が提供されているか」という点です。

また、関内先生は2E(Twice Exceptional)についても触れ、高い能力と障害特性が併存することで「マスク効果(お互いが打ち消し合って見えなくなる)」が生じる難しさを指摘されました。ここでも、学習面だけでなく、心理・社会的な包括的支援の必要性が説かれています。

GIERI代表としての所感

今回の発表を聞き、GIERIが目指すべき方向性が改めて明確になりました。 それは、特定の子どもを選別して「特別扱い」することではなく、「一人ひとりの異なるポテンシャルを見出し、それを社会の中で発揮できるよう(成熟できるよう)環境を整えること」です。

「ギフテッド」という言葉は、子どもたちを分断するためのものではなく、一人ひとりに最適な教育を届けるための「共通言語」として使われるべきだと、強く感じました。


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